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のぶこ

伸子

宮本 百合子

「改造」1924(大正13)年9月号~1926(大正15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 232,543 字 · 466 页

青空文庫

彼女は突然、

「あなた、御影へおいでんなったかい?」

などと佃に訊いた。

「あすこはいいところだない。知ってる者があって、五十日も厄介になっていたが、つい近くに、えー、何ちゅう名だったか――なかに髪結の店まである温泉があってない――省三、お前覚えないごんだか?」

「温泉と云えば……お父様、近くでどこかいい温泉は御承知ありませんか」

食事が終る頃に、佃が訊ねた。

「ありふれたところでは、箱根や伊豆だが」

佐々は奥羽地方の温泉を、二三挙げた。

「おでかけですか?」

佃は曖昧に答えた。

「ええ……考えて来たことがあるもんで……もし、貧乏書生の懐にかなうところでもありましたら、ちょっと出かけようかと思います」

雑談だと思って聞いていた伸子は、思わず注意をこらして佃を見た。佃は、どこまでも、顔さえ父の方にだけ向け、父との話にして云った。

「どうせ旅行しついでですから、十日ばかり行けたら行きたいと思って来たのです」

「ほほう! それはいい計画だ。君の体にだって有益ですよ、是非いらっしゃい。温泉はいい」

父一流の耳学問の広さで、温泉による天然療法の価値を論じた。

伸子は、思いがけなさや、佃がなぜ、直接自分に云ってくれないかと云う疑問など感じたが、次第次第にそれらを忘れて、嬉しくなって来た。