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きくやしき

菊屋敷

山本 周五郎

「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页

青空文庫

そしてもしできるなら松本藩で黒川の家名を再興させたい。そう考えたので、育てかたの困難さは一倍だったのである。

妹の躾けかたによるのだろう。温順な性分とみえるのに少し神経質で、おどおどとしりごみするところがあった。志保はまずそれを撓めることから始めたのである、……晋太郎はすなおにその気持をうけ容れた。なかなか笑わない子だったのが、時には声をあげて笑うようになり、志保をもごく自然に「お母さま」と呼びはじめた。初めてそう呼ばれたときの感動を、ながいあいだ志保は忘れることができなかった。どういう感じだったか、的確に云い表わすことはできないが、ただこれまでに覚えたことのない歓び、それも身内が疼くような大きな歓びであったことはたしかだ、――子のためにはどんな辛労も厭わないという、母親の愛とはこういう感動のなかから生れてくるのに違いない、志保はそのときそう思った。

けれども後から考えると、はじめの一年ほどは子供を養育するというより、寧ろ志保のほうが教えられ勉強した期間のようであった。――母とはどういう存在であるか、子供とはどういうものであるか、明け暮れ晋太郎をみとりながら、瑣末な事の端はしに、びっくりするほど子供から教えられることが多い。