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きくやしき

菊屋敷

山本 周五郎

「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页

青空文庫

もお構い下さいませんようにね」

「それはようございましたこと、では長崎でのご修学が実をむすんだのでございますね」

「いやまだなかなかです」晋吾は控えめに眼を伏せた、「……僥倖とでも申すのでしょう、紹介する人があって、二百石という過分の禄で召抱えられましたが、蘭学のほうは殆んどまだ覗いたという程度にすぎません」

「こういう謙遜ぐせが主人のいけないところですわ」小松が歯痒そうに遮ぎった、「……必要もないのにへりくだってご自分で損をなさる、これまでにもたびたびそれが禍をなしてきました、もうこれからはそんなお癖はおやめなさらなければね、だってこんどは高田のときとはご身分が違うのですから」

志保はつくづくと夫妻を見まもっていた。あのときとは人が違ったようである、二人とも活き活きとして、希望を達したよろこびに溢れてみえるし、衣装も髪道具も、なかなか高価な品を用いている、小松は少し肥えたようで、血色のよい顔はむすめ時代の美しさをとりもどし、眉のあたりには権高な、誇らしげなものさえあらわにみえる、――環境に依ってこうまで変るものだろうか、志保は眼をみはる思いだった、妹の気質はもともと華やかさ豊かさを好み、いつもひとに勝っていなければ承知できないほうだった。