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せいねん
青年
「昴」1910(明治43)年3月~1911(明治44)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,670 字 · 246 页
こういう時に恐るべき微笑もせずに、極めて真面目に。
己は選びもせずに、ラシイヌの外の一巻を抽き出して、持て来た一巻を代りに入れて置いて、しづえと一しょに洋室を出た。
己を悩ました質の、ラシイヌの一巻は依然として己の手の中に残ったのである。そして又己を悩まさなくては済まないだろう。
奥さんの部屋へ、暇乞に覗くと、奥さんは起って送りに出た。上草履を直したしづえは、廊下の曲り角で姿の見えなくなる程距離を置いて、跡から附いて来た。
「お暇があったら箱根へいらっしゃいましね」と、静かな緩い語気で、奥さんは玄関に立っていて繰り返した。
「ええ」と云って、己は奥さんの姿に最後の一瞥を送った。
髪の毛一筋も乱れていない。着物の襟をきちんと正して立っている、しなやかな姿が、又端なく己の反感を促した。敵は己を箱根へ誘致せずには置かないかなと、己は心に思いながら右の手に持っていた帽を被って出た。
空は青く晴れて、低い処を濃い霧の立ち籠めている根岸の小道を歩きながら、己は坂井夫人の人と為りを思った。その時己の記憶の表面へ、力強く他の写象を排して浮き出して来たのは、ベルジック文壇の耆宿 Lemonnier の書いた Aude が事であった。