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せいねん

青年

森 鴎外

「昴」1910(明治43)年3月~1911(明治44)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,670 字 · 246 页

青空文庫

「わたくし二十七日に立って、箱根の福住へ参りますの。一人で参っておりますから、お暇ならいらっしゃいましな」

「さようですね。僕は少し遣って見ようかと思っている為事がありますから、どうなりますか分りません。もう大変遅くなりました」

「でもお暇がございましたらね」

奥さんが、傍に這っている、絹糸を巻いた導線の尖の控鈕を押すと、遠くにベルの鳴る音がした。廊下の足音が暫くの間はっきり聞えていてから、次の間まで来たしづえの御用を伺う声がした。呼ばなければ来ないように訓練してあるのだなと、己は思った。

しづえは己を書棚のある洋室へ案内するのである。己は迂濶にも、借りている一巻を返すことに就いてはいろいろ考えていたが、跡を借るということに就いてはちっとも考えていなかった。己は思案する暇もなく、口実の書物を取り換えに座を起った。打勝たれた人の腑甲斐ない感じが、己の胸を刺した。

先きに立って這入って、電燈を点じてくれたしづえと一しょに、己は洋室にいたとき、意識の海がまだ波立っていた為めか、お雪さんと一しょにいるより、一層強い窘迫と興奮とを感じた。しかしこの娘はフランスの小説や脚本にある部屋附きの女中とは違って、おとなしく、つつましやかに、入口の傍に立ち留まって、両手の指を緋鹿子の帯上げの上の処で、からみ合わせていた。