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せいねん

青年

森 鴎外

「昴」1910(明治43)年3月~1911(明治44)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,670 字 · 246 页

青空文庫

嘘を衝きたくないからと云って、相手の面目を潰すには及ばないのである。それよりはまだ嘘を衝いた方が好いかも知れない。

己は勇気を出して瀬戸にこう云った。「僕はこれまで悪い経験をしている。君と僕との間には金銭上の関係を生ぜさせたくない。どうぞその事だけは已めてくれ給え」と云った。瀬戸は驚いたような目附をして己の顔を見ていたが、外の話を二つ三つして、そこそこに帰ってしまった。あの男は己よりは世慣れている。多分あの事の為めに交際を廃めはすまい。只その態度を変えるだろう。もう「君はえらいよ」は言わなくなって、却て少しは前より己をえらく思うかも知れない。

しかし己はこんな事を書く積りで、日記を開けたのではなかった。目的の不慥な訪問をする人は、故らに迂路を取る。己は自分の書こうと思う事が、心にはっきり分かっていないので、強いて余計な事を書いているのではあるまいか。

午後から坂井夫人を訪ねて見た。有楽座で識りあいになってから、今日尋ねて行くまでには、実は多少の思慮を費していた。行こうか行くまいかと、理性に問うて見た。フランスの本が集めてあるというのだから、往って見たら、利益を得ることもあろうとは思ったが、人の噂に身の上が疑問になっている奥さんの邸に行くのは、好くあるまいかと思った。