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ごべんのつばき

五瓣の椿

山本 周五郎

「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页

青空文庫

仮にまた料理茶屋へ呼びつけたとしても、この広い江戸市中ぜんたいに手を打つことは不可能である。

「一昨日の晩思いきって挙げればよかった」そう呟いて、彼はくっと首を振った、「ぐちはよせ、問題はこれからどうするかだ、香屋の道楽息子は諦めよう、どうしたらあの娘を押えることができるか」

彼の歩調はゆるくなり、堀に沿った片側町を、暫く黙って歩いていった。それから、江戸橋と思われる橋を渡ったとき、道傍によたか蕎麦が荷をおろして、釜下の火を煽ぎながら、湯を沸かしているのを見た。ちょっと見ただけで通り過ぎたが、一丁ばかりいってからふと立停り、じっと夜空を見あげた。

――むさし屋。

よたか蕎麦の行燈に「べんけい」と書いてあった。なにげなく見て通ったのだが、弁慶という字から連想がうかんだのであろう。彼はそのとき初めて、親子三人の焼死、という出来事を思いだした。

「亀戸のほうの寮で、両親と娘が焼け死んだ、慥かそんな事だったな」歩きだしながら彼は声に出して云った、「――うろ覚えだが、母親と娘は達者だった、父親は病気で危篤だったが、母と娘はまったく丈夫だった、それがどうしていっしょに焼け死んだか不審だと、云っているのを聞いた」