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ごべんのつばき
五瓣の椿
山本 周五郎
「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页
「いや、私はこのうちは知らないんだ、私は初めて来たんだから」
「そんならあの方だって初めてじゃありませんか、それとも旦那のほかに、こんなところで浮気をなさるような」
源次郎は手を振って遮った、「そうじゃない、そんなことじゃない、ただこのうちは馴染かどうかと訊いただけで、初めてなら初めてでいいんだよ」
「たんとお聞かせなさいまし、あたしいただくから」女中は膳の上から勝手に盃を取った、「憚りさま、お酌をして下さいな」
源次郎は浮かない顔で徳利を持った。
その家は日本橋ばくろ町の「伊賀正」といって、旅館と料理茶屋を兼ねていたが、その家を小伝馬町のほうへゆき、堀の手前を左へ曲ったところに、二階造りで藪蕎麦があった。――その二階の小部屋で、およねがおつるという女と話していた。五つになる女の子は、卵とじの丼をかかえ、しきりに汁をはねかしながら、蕎麦を喰べるのに熱中してい、年が明けると二歳になるという下の女の子は、母親に抱かれて乳を咥えていた。
ここへ来てからもう一刻ちかく経つ。おつるは絶えず眼を拭きながら、少し訛りのある言葉つきで、源次郎とのゆくたてを語り続けていた。