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あさくさふどき
浅草風土記
久保田 万太郎
雷門以北「東京日日新聞 夕刊」1927(昭和2)年6月30日~7月16日<br>吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年2月<br>続吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年3月<br>隅田川両岸「中央公論」1935(昭和10)年9月<br>浅草田原町「三田文學」1912(明治45)年2月<br>あやめ団子「花形」1920(大正9)年8月<br>相模屋の路次・浅倉屋の路次「新演藝」1920(大正9)年8月<br>浅草の喰べもの「中央公論 夏期特別號」1920(大正9)年7月<br>夏と町々「時事新報 夕刊」1929(昭和4)年6月1日~30日<br>絵空事「新潮」1932(昭和7)年3月<br>一年「東京新聞」1946(昭和21)年4月15日<br>浅草よ、しずかに眠れ「苦樂」1948(昭和23)年2月<br>夜店ばなし「婦人公論」1931(昭和6)年7月<br>除夜「週刊朝日」1930(昭和5)年12月28日號<br>正月「婦人公論」1932(昭和7)年1月<br>水の匂「文藝春秋」1941(昭和16)年7月<br>町々…… 人々……「別冊文藝春秋」1955(昭和30)年2月~6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,294 字 · 318 页
そのころの小学校の先生は、その大ていが、学校以外、それぞれ自分のうちへ弟子をとって英語だの漢文だのの個人教授をしたものである。それをわれわれ「夜学」と呼んだ。――その「夜学」へ行くのに、だれも一旦うちへ帰って出直すのをあたりまえとしたが、ときによって学校の帰り、そのままそこへ弁当ばこをぶら下げたなり廻ってしまう場合もすくなくなかった。だからそれは事実において半ば「昼学」だった。……が、どこの夜学へ行く、どこの先生んとこの夜学へ行く、みんなわれわれ、すこしのうたがいもなくそういった。
その時分、香取先生、今戸に住んでいた。「ほんに田舎も真柴たく橋場今戸の朝けむり」の今戸である。――待乳山の下、今戸橋をわたって行くこと約半町、左っ側が八幡さまで大きな石の華表が立っている。その石の華表のすじむこうに、古い、格子づくりの、おんなしような恰好をした小さな平屋が二三げんならんでいた。そのとッつきの一けんが先生のうちだった。――その格子……わたしはその格子のたてつけのきわめてよくなかったことをおぼえている……をあけて入ると狭い土間の、すぐそのうえが煤ぼけ切った障子。