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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
晋吾はなにか屈託ありげに黙しているし、志保は正念寺へゆく時刻が気になっておちつけなかった。しかしそんなことには遠慮もなく、まるでとりとめのないことを次から次へと話しかける。口数の多いのは小松の生れつきであるが、そのときはどこやら追われる者のようなせかせかした調子で、態度にもおちつきがなかった。
「こんどはなんでいらしったの」志保は妹の饒舌を抑えるように口をんだ、「……なにかこちらに御用でもあってなのですか」
「ああ忘れていた」小松は慌てて向き直り、「……お乳をやる刻だったのに、つい話にまぎれてしまって」そう云いながら、寝かしてあった赤子を抱きあげて衿をひろげた、「大きい赤子でしょう姉上さま、これで百五十日ですのよ、もう片言を云いますの、名は健二郎、たしかお知らせ申しましたわね」
「いいえ今日はじめてですよ、知らせて下さればお祝い申しましたのに」
「あらそんなことはないと思いますけれど、でもそうね、つい忘れたかも知れませんわ、ちょうど主人が学堂の御用で江戸へ出たりしてごたごたしていましたから、……ああそうそうそれに就いて姉上さまにお願いがありますの。健さんお乳はもう沢山ですね、おたあさまはお話があるからおとなに待っていますのね、さあまたおねんねですよ」