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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
三
……志保は庭はずれまで送り、菊畑のところに立って暫らく見送った。菊畑といってもたかだか四五十株の、それも小花の黄菊だけであるが、父は「河内」となづけてひじょうに愛していた。河内とは楠公を偲ぶこころを託したものであろうか、訊ねたことはないが志保はひそかにそう察し、今でも父の心がその菊に宿っているように思える。また村の人たちはこの家を菊屋敷と呼んでいるが、それも菊のみごとさを云うのではなく、亡き主人の大切にする気持から出たものであった、……どの株も今が咲きざかりで、あたりの空気は噎せるほども高雅な香りに満ちていた。
「……今日はなにかよいことがあるように思った」志保は口の内でふとそう呟やいた、「……若い日の望みが還ってきたのであろうか」
三
世に知られる学者に成ろう、そう思ったあの頃のひたむきな情熱が、今また志保の胸をあやしく唆った。女の身で書を講ずるなどということはおこの沙汰ともいえよう、けれども父の遺志を継ぎ、身についた学問を生かすことができれば、必ずしも無益とはいえない筈だ。自分は幼少から父のそばにいて親しく教えを受け、その学統の方向もわかっている。