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ごべんのつばき
五瓣の椿
山本 周五郎
「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页
「お勘定は済んでおります、おこころづけも頂戴いたしました」
男は歩きながらよろめき、片手に持っている折詰をぶらぶらさせた。
「これがお土産」と彼は呟いた、「――これはお師匠さんへといってお預かり、あけてみれば一両、へっ、到れり尽くせりか」
やけ酒でも飲んだらしい。おそらく、おりうという女に帰られたあと、独りでやけ酒を呷ったのだろう、前後左右へよろめきながら、口の中でぶつぶつ独り言を云った。
「おい、しっかりしろ」と彼は自分に云った、「おめえは痩せても枯れても岸沢蝶太夫だぞ、そうだろう、常磐津綱太夫の弟子では、小天狗といわれた、いまの綱太夫なんか、へっ、おれの履物を直したもんだ、ほんとだぜ」
黄昏のことで、街は人の往き来が多かった。家並の軒下はみるみる暗さが濃くなり、足早にゆき交う人たちをせきたてるかのように、夕餉の煮炊きの匂いが漂って来た。
「だが正直なところ、おれは唄より糸のほうが好きだった、うん、あの小式部師匠の糸を聞くと、骨身がぐたぐたになるような気持だったからな」彼は自分に頷いた、「――そうよ、浄瑠璃は唄じゃあねえ三味線だ、浄瑠璃を活かすも殺すも、三味線の撥さばきひとつに、かかってるんだ、いまの豊後大掾だなんていばっていたって、おれの撥のさばきのかげんでどうにでもなるんだ、それこそ客席のやじでうたえなく