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ぜんのけんきゅう
善の研究
西田 幾多郎
「善の研究」弘道館、1911(明治44)年2月6日発行
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,777 字 · 243 页
思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である。或統一者の発展と見ることができる。
かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから、余はこれより少しくこれらの点について論じて見ようと思う。普通には知覚的経験の如きは所動的で、その作用が凡て無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用が凡て意識的であると考えられている。しかしかように明なる区別はどこにあるであろうか。思惟であっても、そが自由に活動し発展する時には殆ど無意識的注意の下において行われるのである、意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合である。思惟を進行せしむる者は我々の随意作用ではない、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象即ち問題に純一となった時、更に適当にいえば自己をその中に没した時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。