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こいのでんしちろう

恋の伝七郎

山本 周五郎

「講談雑誌」博文館、1946(昭和21)年10月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 29,650 字 · 60 页

青空文庫

その少しまえに妻に死なれたので、忠太郎と二人、普請場の手伝いなどに雇われてかつかつの暮しを続けていたが、それから七年してはかなく死んでしまった。……まったく有るに甲斐なき一生だったが、自分ではそうは思わなかったらしい、呉服屋の若旦那だった頃は、なんの苦労もなくそれ相応の暮しをしたのだろうが、曾ていちどもその頃をなつかしがった例しがない、金物店の時代でも鍛冶屋町の裏長屋よりは増しな生活をしたに違いないが、「あのじぶんはよかった」とひと言くちにしたことがなかった。むしろ裏店へめり込んで、普請場の手伝いなどするようになってから、時たま味噌を肴に一合の酒を啜りでもすると、まるで相好を崩して、「うめえなあ」と舌鼓をうつ、「おれにゃあこれが極楽だ」なんぞとも云った。忠太郎の記憶を信じてよければ、その裏店で暮している間ほど幸福そうな父親を見たことがなかった。そして死ぬときには忠太郎に向って、「正直にしな」と繰返し繰返し云ったものだ、「馬鹿と云われても白痴と云われてもいい、正直にやってゆきな、あこぎなことをして儲けたって、人間が寝るには畳一帖で沢山だ、飯は三杯、寒くたって、着物を十枚とは着られねえ、慾をかくな、睡ってからうなされねえように生きる