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しんしょたいこうき
新書太閤記
吉川 英治
06 第六分冊
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 200,320 字 · 398 页
「土屋。土屋右衛門。奥方を馬の背へ抱き乗せてやってくれい」
「はい」
側衆の土屋右衛門が、畏まって、夫人の側へ寄りかけると、夫人はにわかに、涙をはらって、良人の勝頼へ云った。
「まことの侍に、二君はないように、いちど嫁いだ女子には二度と帰る家などあろう筈はありません。ここからひとり立ち去って、小田原へ帰れとは、お慈悲には似ても、妻の身として聴くには、余りにお情けないおことばにござります。……わたくしはここを動きませぬ。御最期までお側におります。そしてその先までもお供をさせていただきまする」
そのときまた、秋山紀伊守の家来たちが、
「敵は間近です」
「ふもとの寺近くまで来ております」
と、眉に火がつくように注進して来た。
勝頼の夫人は、侍女たちの悲嘆を叱って、
「嘆いてばかりいる時ではない。用意のものをこれへ備えてたも」
と、きつくいった。
まだ二十歳にも足らぬこの夫人は、最期がせまるほど端正を失わずまた水のように冷静であった。
かえって、良人の勝頼こそ、その夫人の落着きぶりに、たしなめられる心地がした。
「はい……」
と立った侍女たちは、素焼の盃と銚子とを取り揃えて来て、勝頼父子のまえにおいた。