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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

02 第二部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 页

青空文庫

と甲斐が云った。

「お願いです、原田さん」

「丹三郎」と甲斐がまた云った、「客が帰られるぞ」

外から襖があいた。丹三郎がそこにいた。六郎兵衛は甲斐を見あげ、なおなにか云いそうにした。しかし甲斐の静かな、あまりに穏やかな眼にであうと、云うちからを失ったように、悄然と座を立った。

「ひと言だけ聞かせて下さい」と六郎兵衛が云った、「またおめにかかることができるでしょうか」

甲斐は一揖した。それは否とも、応ともとれる表情であった。六郎兵衛は低頭して出ていった。うしろから見る彼の肩や背までくたくたに疲れた人のようであった。

甲斐は広間へはゆかず、そのまま居間へはいった。丹三郎がすぐに来て、客の帰ったことを告げた。甲斐はおくみを呼んでくれと命じ、丹三郎が去ると、机に向かって、硯箱をひきよせた。

「約定の証文、うん」甲斐は墨を磨りながら口の中で呟いた、「六十二万石分割について、一ノ関が雅楽頭に約定を求める、その証文を取交わす、そんなことがあるだろうか、一ノ関の性格から推せば、そのくらいの要求はするだろう、しかし雅楽頭がそんなばかなことをするとは思われない、もしそれをするなら、雅楽頭にもなにか利分がある筈だ」