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かがりびのおんな
篝火の女
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1935(昭和10)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 27,727 字 · 56 页
(それは、何よりの品)
と、三郎はよろこんで、携えて帰ったのである。そして、後に届いた彼女への便りには、
――お身の唇に濡れたることもある笛と思えば、わが唇の触るるごとに、音もおののき、身も慕わしゅうおののき候て。
などと書いてあった事もある。
云う迄もなく、八雲の思慕も同じだった。いや、女ごころは、外にあらわさないだけに、もっともっと、埋め火のようにつよいものがあったかも知れない。
所が、その誓いは、果されなかった。
なぜならば――
まず第一に、北条家の主君、氏政がゆるさなかった。越後の上杉家とは、それから間もなく、上野国の国境で、小競あいがあり、甲州の武田信玄は、久しく鳴をひそめていた鼓を鳴らして、
(わが甥、氏政のために)
と出兵の口実を藉りて、上杉勢の退路を断ち、沼田、吾妻、碓氷の各所で、烈しい合戦が繰りかえされて来たのである。
甲斐の武田信玄は、小田原の北条氏政にとっては、母の弟にあたるので、この叔父は、天文十六年の冬以来、越後の上杉謙信と干戈を交え始めてから、互いにその領土を侵したり侵されたりしつつ、幾度か川中島に両軍から出張って雌雄を決しようとしたり、また幾度か和睦を議しては和せずに立ちわかれて、宿命的に、越後と睨み合っている仲なのである。