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ささめゆき

細雪

谷崎 潤一郎

03 下巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 226,715 字 · 431 页

青空文庫

三十二

「バアテンダアしてる人かいな」

妙子は黙って点頭して見せてから、

「お医者さんに診て貰うたことはないけど、きっとそうやろ思うねん」

「こいさん、生む気やのん」

「生んで欲しい云うねん。………そないせえへなんだら、啓ちゃんが諦めてくれへんねんわ」

不意に大きな驚きに襲われた時のいつもの癖で、幸子は見る見る手足の先から血が退いて行き、体が激しくふるえて来るのが意識せられた。何よりも彼女は、動悸がこれ以上強まらないようにすることが急務だと感じて、それきり妙子とは物を云わず、天井の明りを消すためによろめきながら壁際へ行ってスイッチを切ってから、枕元のスタンドをつけてベッドにもぐり込んでしまった。雪子が風呂から出て来た時は、彼女は眼を閉じて寝たふりをしていたが、それから妙子は悠々と身を起して、バスルームへ行ったらしかった。

三十二

何も知らない雪子が真っ先に、妙子もやがて寝入ってしまったらしいのに、幸子はひとりまんじりとせず、ときどき眼の中に溜って来る涙を毛布の端で擦り擦り一と晩じゅう考えつづけていた。鞄の中にはアダリンもあるし、ブランデーもあるのだけれども、今夜のように興奮していては利き目がないことが分っているので、そんなものを飲んで見ようともしなかった。