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ささめゆき

細雪

谷崎 潤一郎

03 下巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 226,715 字 · 431 页

青空文庫

幸子達の方からは、軍服の背中と、横顔の一部しか見えなかったが、まだ二十台の青年であることは明かで、少し含羞むような様子で唄っていた。幸子達は、自分達が大垣駅で乗り込んだ時からこの士官がいたことは知っていたけれども、後姿を見ているだけで、顔つきなどは見ていなかったが、さっきの蛍の騒ぎの時に幸子達の存在は乗合客の注視を集めたので、士官の方では彼女達を見ていない筈はなかった。士官は多分徒然の余りと、襲い来る睡魔を払うために唄い出したので、声に自信があるのであろうが、うしろでそれを聴いている花やかな人々のあることを感じ、そのために幾分固くなっているらしいのであった。唄ってしまうと、一層羞かしそうにさし俯向いていたが、暫くしてから、又シューベルトの「野薔薇」を唄い出した。

童は見たり

野中の薔薇

きよらに咲ける

その色愛でつ

あかず眺む

野中の薔薇………

これらの歌は独逸映画「未完成交響楽」の中にあって、幸子達にも馴染の深いものであった。彼女達は、誰が唄い出すともなく、士官の唄うのにつれて口のうちで跡をつけていたが、だんだん声が大きくなって、士官の声に和し始めた。士官の顔が襟まで真っ赧になったのが後からも認められたが、途端に彼の声も興奮したような顫えを帯びて止めどもなく大きくなって行った。