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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
「どなたかお忘れだったのでしょう」
「いいえお嬢さまへ宛てたお文でございますよ」
そう云って渡された封書を手にして、志保はひらめくようにいつぞやの実朝の歌を思いだした。それはつい今そのときのことを回想していたからかも知れない、――あのときの方だ、という言葉が反射するように頭へのぼった。表には自分の名が書いてあるけれど、署名はどこにもみつからない、
「……まあ、どなたからでしょう」
志保はさりげなく呟やきながら、お萱に顔を見られないようにして家へあがった。
その文を披いたのは夜になってからだった。そのまま破いてしまおうかとずいぶん迷ったあげく、やはり披く気持になったのである、あのときの手と同じものかどうかはわからないが、しっかりとしたみごとな筆跡で、墨色もきわめて美しい、志保は宛名の文字を暫らくみつめていたが、やがて封を切ってしずかに読みはじめた。……果して察しのとおりだった。それは実朝の歌を書いてよこした同じ人で、手紙はまず曾ての無礼を繰り返し詫びる文字から始まっていた。
――自分もまだ年が若く、いちずの気持に駆られてあんなことをしたが、しかし決していたずらとか嘲弄などという意味はなかった、金槐集の歌を書きぬいたのは、あれが日ごろ自分の愛誦するものであり、あのときの心をいかにもよく伝えられるように思えたから