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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
これだけ自分に心をよせて呉れる方なら、今までどこかにそういうそぶりの見えなかった筈がない、そう考えてよくよく思い返してみるが、相手が深く慎んでいたためか、自分にそういう意識が無かったからか、おぼろげにもそれと推察のつく記憶はなかった。
臥所にはいってからも、その夜はなかなか眠ることができなかった。二十六年の来し方が夜明け前の朝靄に包まれていたとすれば、いま雲をひき裂いて日が昇り、朝の光が赫燿と漲りだすような感じだ。望んでも得られないと疾うに諦めていたものが、同じ日に二つとも自分のほうへ手をさしのべてきた。ただ「はい」とさえ云えば二つとも自分のものになる、それは考えるだけでも充実した大きな幸福感であった、――仕合せとはこういうものか、志保には初めてそれがわかるように思えた。
「……二十六にもなって」ふとそう呟やき、またすぐうち消すように、「いやたとえ三十、四十になっていたとしても、こういう仕合せにめぐり逢えるとわかっていたら、人間はどんな困難にも克ってゆくことができるだろう」
宵のうちから吹きだした風が、夜半には秋嵐となり、裏にある松林がしきりに蕭々と鳴りわたっていた。