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きくやしき

菊屋敷

山本 周五郎

「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页

青空文庫

なかった。晋吾はこのありさまをよくみて帰藩したのである、

「……わたくしには学問のことはわかりませんが」と小松は続けた、「姉上さまなら理解して下さるでしょう。わたくしたちは長崎へゆくつもりなんです。期間はだいたい三年ときめておりますけれど、五年でも六年でも、主人が蘭学を卒えるまでは辛抱します。そのあいだ縫い針洗濯の手仕事をしても、どんな事をしてでもきっと辛抱しとおしてみせます」

「ではこれから新しく、蘭学の勉強をお始めなさるというのですね」

「そして石に噛りついても、蘭学者として天下に名をあげて貰いますわ、お願い申すというのはそこなんです」小松はじっと姉の眼に見いった、「……長崎へまいればわたくしはその日から生活の手仕事を始めるつもりですの。それにはこの晋太郎が、……この子がどうしても足手まといになります。それで、ずいぶん我が儘なおたのみですけれど、晋太郎を預かって頂きたいと思いまして」

そのとき志保は頭からすっと血の消えるような感じがした。

――これで昨日からのことはすべて終った、そう思った。学問の道へ還ることも、正念寺の墓前へゆくことも、みんな一夜の夢として終った、あのような幸福はやはり本当に自分のものではなかったのだ。