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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
けれど、と手紙はさらに続く、――健二郎が死んだ今は晋太郎が跡継ぎである、しかし自分が返して欲しいのはそのためではない、理窟なしの愛情である、わが子を抱きたいという母親の愛だけである、姉上は子を生したご経験がないから、こういう母の愛の烈しさはおわかりにならぬかも知れない、この烈しさはいかなるものも拒むことができないのである、怒られてもよい罵しられてもよい、どうか晋太郎を返して呉れるよう、使の者といっしょに早く、一日も早く晋太郎を返して呉れるように、……懇願というより叫びのような文字で、その手紙は終っていた。
「使の者はさぞ疲れているでしょう」志保は声のおののきを隠しながら、つとめてしずかにそう云って立ちあがった、「……今宵はここへ泊めてあげなければなりません、忠造に洗足や食事の世話をしてやるよう申し付けて下さい」
「でもお嬢さま、そのお手紙はいったいどういうことが書いてあるのでございますか、もしや……」
「あとで話します、とにかく御膳を済ませましょう」
さきへ食べるように、そう云ったのに晋太郎は待っていた。そして志保が戻って来ると、もの問いたげな眼でじっとこちらを見まもった、志保にはその眼を見るちからがなかった、そして殆んどかたちばかりに箸をつけ、終るとすぐにまた居間へはいってしまった。