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きくやしき

菊屋敷

山本 周五郎

「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页

青空文庫

ない。震えてくる手足にちからをこめ、そう自分を訓しながら、志保は先に立って廊下伝いに塾のほうへゆき、しずかに入口の引戸へ手をかけた。

「……ごめんあそばせ」

そう云って返辞を待とうとしたとき、うしろにひき添って来た大目附の者が、志保を押しのけざま引戸を明け、五浦なにがしと共につかつかと中へ踏み込んだ。

「上意である、神妙になされい」

そう叫ぶのと同時に、だだと総立ちになる物音が起り、「みんな迯げろ」「斬ってしまえ」と絶叫の声があがった。志保はああと身をひき裂かれるように呻き、どうしようという考えもなく、ただ夢中で明いている戸口から塾の中へはいった、門人たちは一斉に立って刀を抜いた、しかしそれより疾く、杉田庄三郎がとびだし、両手をひろげてかれらの前に立塞がった。

「刀を置け、なにをうろたえるか、抜いた者は同志を除くぞ」かれの声は塾の四壁へびんと響いた、「……今日あることはかねて期していた筈だ、たとえ捕繩をかけられようと、拘引されて首をはねられようと、われらの志す道には些さかのゆるぎもない、生きてこの道を天下に顕彰するのはむつかしいが、われらが死ねばあとへ続く者は必らず出る、大やまとの国びとはあげてわれらのあとへ続くのだ、迯げたり隠れたり、生きのびようなどと考えるのは恥辱だぞ」