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ごべんのつばき

五瓣の椿

山本 周五郎

「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页

青空文庫

得石のよく手入れのしてある口髭が片方へひきつった。だがそれは怒りのためではなく、ぬかるみへ坐りこむ酔漢の、居直るような表情に似ていた。

「そういう金できさまも雨露を凌いできたんだ」と彼は歯と歯のあいだから云った、「喰べる物を喰べ着る物を着、雨風にも曝されずに生きて来られたのはそのおかげだぞ」

「それを有難がれとでも云うのかい」おくには鼻で笑った、「ふん、そんなきたならしいお金で生きるくらいなら、あたしゃ飢え死をするほうがよっぽどましだよ」

「そうしたらどうだ」彼は着替えをしながら云った、「おれは止めやあしないぞ」

「そういうことはよく考えてから云うもんだ、迂濶に立派な口をきくとあとで引込みがつかなくなるよ」

得石は妻を見た。

「なんだと」彼の眼はすっと細くなった。

「なんでもないさ、いまはね」おくにはゆっくり云った、「おまえさんといっしょになって九年、薬研をすったり、客の応対から勝手仕事まで、代脈と下女の役をたった一人で、飽き飽きするほどやって来た、いつか夫婦らしい夫婦になれる、子供を産んで、海野得石の妻となって、恥ずかしくない世間づきあいができる、そう思って辛抱していたんだ、ところがこのごろになって、ようやくおまえさんの本心がわかった、おまえさんにはあたしと夫婦になる気なんか、初めっからなかったんだ」