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しんやのしちょう
深夜の市長
海野 十三
「新青年」博文館、1936(昭和11)年2月~6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 109,982 字 · 220 页
業平橋を渡ったところを起点とし、濠割づたいに亀井戸を抜け、市電終点猿江を渡って工場街大島町まで伸ばしてみようと。だが結局後に述べるような突発事件のために、折角考えた散歩コースを行くこと幾何もなくして、遂に前途を放棄しなければならなくなったのだった。……
ポーンと五十銭玉を一つ助手の手に抛りこんで、僕は車を捨てた。橋の袂から、濠割のなかを覗きこむと、昼間見れば真黒な溝泥の水を湛えた汚い水面が、両岸の工場の塀外にさし出た常夜灯の眩しい光に照り映えて、まるで鏡のように光っていた。夜は昼間と全然違った別の天地を現出する。屋外灯にしても、昼のうす汚れた灰色のグローブが、夜間に於てはニーベルンゲンの夜光珠もかくやと思うばかりに燦然と輝くのであった。昼と夜と、いずれが真の姿であるか知らないが、すくなくとも夜は美しく優しく静もり深く、そして底しれぬ神秘の衣をつけている。T市の人々の多くは、この素晴らしい夜の顔を知らないでいる。昼間のT市とは全く別のT市が在ることに気付かないのだ。市民たちは深夜となれば習慣として皆家の中に籠って睡る。翌朝起き、太陽の輝く町が昨日在ったそれと同じであるところから、T市が昨夜何ごともなく何者にも奪われないで市民と共に死んだようになって睡っていたものと至極単純に考えている。