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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
……自分は今でもあなたを家の妻に迎えたいと願っている、この気持は六年まえと少しも変ってはいない、寧ろながくお近づき申していればいるほど、あなたならではという確信が強まるばかりである、どうか平生のあなたの温かな心で、すなおに自分の申出を聞いて頂きたい、少し考えることもあるのでこの手紙にもわざと署名はしないが、もしこの願いがかなえられるものであるなら、明七日の朝十時、正念寺の先生の御墓前までおはこびを待つ、御墓前でなら亡き先生もそう強くはお叱りなさるまいと思う、十時までにおいでがなければ、……もしおいでがないとすれば、まだ時期でないものと思って、なお自分はそのときの来るのを待つ決心である。
手紙の文字はそこで終っていた。署名はもちろん、その主を暗示するなんの印も付いていない、志保は心をかき乱された、生れて初めて全身の血が嚇と燃えるように感じ、文を持つ手が恥ずかしいほど顫えた。六年という星霜を隔てて、少しも変らず自分を愛しつづけて呉れた者がある、いちどは愛誦の古歌に託して、こんどはうちつけに、けれどすがすがしいほど率直に心をうちあけている、志保は息苦しいような切なさに胸を緊めつけられた、――どなたかしら、それを知りたかった。