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きくやしき

菊屋敷

山本 周五郎

「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页

青空文庫

年は三十一になるがまだ娶らず、「嫁の代りです」などと云いながら、ずいぶんまめまめしく母に仕えているという。一民の旧門下十七人のなかでは古参だし、条件を考えると志保がそう思いついたのは寧ろ遅すぎたくらいかも知れない。けれどそう思ってよくよく注意してみたが、庄三郎のようすには些さかも変ったところはなかった。

「では考え違いかしら」志保はかれらを送りだしてから、思い惑ったように呟やいた、「……もしあの方なら、あれほど平気な冷淡な応対はなされない筈だ、ではいったい誰だったのだろう」

すべてを諦めたと思い切ってから、却って志保の心は手紙の主に惹きつけられるようだった。むろんその主がわかったとしても、今はもうどうするすべもない。晋太郎を育てあげることに一生を捧げるほか、自分の生きる道はない。かたくそう決心しているにも拘わらず、却ってこころ惹かれるのはなぜだろうか、――こういう気持をみれんというのであろう、恥ずかしいことだ。志保は自分を責め、できるだけそういう感情からぬけ出ようと努めるのだった。

晋太郎は温順な子だった。父母と別れてから四五日は、燈ともし頃になると悲しそうで、独り庭へ出ていっては、涙の溜った眼でじっと遠い山脈を見ていたりした。