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ごべんのつばき

五瓣の椿

山本 周五郎

「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页

青空文庫

竹藪は黄色く霜枯れ、池の水は寒ざむと澱んでいる。椿の木の幹は灰色で、空は鬱陶しく曇っていたようだ。すべてがしらちゃけた淡色にいろどられている中で椿の葉の黒ずんで光る群葉と、葉がくれにつつましく咲いている紅い花とは、際立っているようで却ってものかなしく、こちらの心にしみいるように思えた。

「この花だ」と喜兵衛は眼を向けて云った、「小さい私は池の端に佇んで、独りっきりでこの花を見ていたものだ、或るときは泣きながら、或るときは途方にくれながら、――この花を見ていると、何十年も昔の自分の姿が、ありありと眼にうかんでくる、なつかしい」

本当になつかしい、と云いながら、喜兵衛はまた涙をこぼした。

「どうしてそう云って下さらなかったの」おしのは頬を拭いてやりながら云った、「云って下されば椿の花ぐらい、いつでも活けてあげられたのに」

「そうだったな」と頷いて、喜兵衛は暫く黙っていたが、やがて独り言のように、低い声で云った、「――けれどもな、おしの、あきんどというものは、隠居でもしない限り、花いじりなどはしないものだ、ことに私は婿の身で、亡くなった旦那に義理があるし、本当を云うと、むさし屋のしんしょうを興すということ以外にはなにも考えなかった、椿のことなぞも、きょうまで思いだしさえしなかったんだよ」