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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
――そのお一人に申上げますが、いまの一首は金槐集にある名だかい歌です。いたずらにしても、金槐集などにある恋歌をひくとは、お智慧のないなされ方だと思います。こんどはもっと稀覯の書からおひろいあそばせ。……誰かそぶりでそれと知れる者はいないか、そう思って注意していたがまるでわからなかった。しかし辱しめられた怒りもそれでやや解け、これは古歌だとすぐにひきだせる自分の記憶力をもたしかめて、そのときはかなり得意だったのである。もちろん今ではそんなきおい立った気持はない。控えめにつつましくという戒しめも、自分で望んだほどは身についたと思える。この謙虚さに誤まりがなければ、女として学問の道にわけ入っても、お役にたつことができるのではないか。
若き日に夢み描いたような輝やかしさはないが、学問へ還れると思うことは、さすがに心おどる誘惑だった、志保はからだの内に新しいちからが動きだすように感じ、上気した眼をあげて秋空を見た。……そこへお萱の呼ぶこえが聞えた。塾の建物から出て来たところで、手に一通の封書を持っていた。
「いまあと片付けにまいりましたら、このようなお文が置いてございました」