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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
いつもなら衾の襟をかき寄せ、息をひそめて聴きいるのだが、今宵はその寒ざむとした松籟の音までが、自分の幸福を謳って呉れるように思いなされる、――そのときの心のあり方によって、人間は風を聴くにさえこれだけの違いがある。幾たびも寝返りをしながら、志保はふと自分の気持をそう思い返して、はてのない空想をうち切ろうとした。
よく眠れなかったにも拘わらず、明くる朝は早く眼が覚めた。今日から新しい自分の人生が始まるのだ、そういううちから強い感情が胸いっぱいに溢れて、家のなかにじっとしていられない気持だった。まだ霧の濃い庭へおり、氷のように冷たい小川の水で洗面した。約束の時刻に正念寺へゆくことはもうきまっている、すべてをあるがままに受けよう。父の忌日にあったことだから、もしやすると父上のお導きかも知れない、相手がたとえ誰であろうと、六年もこころ変らず、こんどの機会がいけなければさらに次の折まで待つという、その真実さにはこたえなければならない、……ただ惧れるのは、自分のものでない幸福を誰かから偸むような不安な感じのすることだ。それはうち消してもうち消しても胸につかえてくる。