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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
九
志保は夜なかにいちど、必ず晋太郎の寝所をみまうならわしだったが、平安にねいっている子の寝顔を見ると、そのまま去ることができず、惹きつけられるような眼で、ながいあいだじっと見まもっていることがしばしばだった。
「お嬢さまはお変りあそばしました」お萱はよくそう云うようになった、「……この頃のように活き活きとした、お仕合せそうなごようすは拝見したことがございません。お顔も艶つやとしてきましたし、いつもお楽しそうで、本当にお人が違ったようでございます」
「自分でもそう思いますよ」志保はすなおに頬笑んでそう答えた、「……毎日まいにちがこんなに生き甲斐のあることは初めてです。本当に女は子供をもってこそ生きるはりあいがあるものですね」
「そんなにお思いなすって、もし晋太郎さまとお離れなさるようなことがあったらどうあそばします」
「この子と別れるのですって……」
「実の親御がいらっしゃるのですもの、無いことではないと存じます」
九
深い考えがあって云ったのではない。なんの気もなくふと口に出たのであろう。しかしお萱の言葉は志保にするどく突き刺さった。――そうだ、この子には実の親がある。