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きくやしき
菊屋敷
山本 周五郎
「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,620 字 · 71 页
たとえあのときの約束がどうであろうと、返せと云われれば返さないわけにはいかない、もしそんなことになったとしたら……。志保は全身の血が冰るように思った。本当になにかで突き刺されたように、心臓のあたりがきりきりと痛んだ、――いいえできない、晋太郎を離すことはできない、もしそんなことになったとしたら、おそらく自分には生きるちからが無くなってしまうだろう。もうその時が来たかのように、志保が色を喪なって考えこむのを見たお萱は、却ってうろたえたように急いでうち消した。
「そんなにお考えなさることはございませんですよ。小松さまにはご二男がおありですし、あんなに堅くお約束をあそばしたのでございますもの。あまりお嬢さまがお仕合せそうなので、お萱がつい心にもないことを申上げたのです。決してそんなことはございませんからご安心あそばせ」
そうだ、そんなことがあってよいものか。志保はお萱のうち消しに縋りつく思いで、不安な想像を忘れようとつとめた。けれどもいちど心に刺さった苦痛の感じは決して去らず、それからもときどき襲ってきては志保の胸をかき紊すのであった。
毎月の忌日に塾へ門人たちの集ることは、あれ以来ずっと欠かさず続けられていた。