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ごべんのつばき

五瓣の椿

山本 周五郎

「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页

青空文庫

と囁いた。

「留守って、どういうこと」

「江ノ島へいらしったんですって」

おしのの口がゆっくりとあいた。

「二十九日の朝」とお孝は続けた、「石町の伊勢久のおかみさん、通り二丁目の吉井屋のおかみさん、そのほかお二人ごいっしょに、往き帰りとも七日のつもりで、江ノ島の弁天様へおまいりにいらしったんだそうです」

「おっ母さんが、二十九日に」おしのはぼんやりと訊き返した、「――江ノ島へだって」

「おまささんがそう云ってました」

「二十九日」とおしのはまた訊き返した、「それ本当のことだろうね」

だがお孝の返辞を聞こうともせず、おしのはふらふらと、よろめきながら自分の部屋へはいり、畳の上へ崩れるように坐った。二十九日はおしのが訪ねた翌日に当る、そのとき母はあさっての夕方にゆくと約束をした。父がこれまでとは違って、本当に重態だということをはっきりと云ったし、それが誇張でないことはわかった筈である。

「おっ母さんは騙した」おしのは歯と歯のあいだで呟いた、「おっ母さんはあたしを騙したのよ、あのときもう江ノ島へゆくことはきまっていたんだわ」

二十七日の夜から、火のけを入れなかったその部屋は、壁までしみとおるほど冷えていた。