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さこんのいかり

左近の怒り

坂口 安吾

「講談倶楽部 第六巻第九号~第一一号」1954(昭和29)年7月1日~9月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 47,454 字 · 95 页

青空文庫

左近を海へ帰さなければ。あの薄気味のわるい婆やも緑の自動車の運転手も別れぎわに呪文のようにそう唱えているのである。左近を海へ帰したくないが、どうしても帰さぬわけにはいかないのだ。彼女自身の経てきた奇怪な遍歴の如きは頭にとどまる余地もなかったのである。葉子は部屋の中を見まわした。そこにいるのはタコスケと兄だけだ。左近の姿が見えないので葉子は思わずぞッとすくんだ。タコスケは思わず立上って、

「葉子さん! どうしたんですか!」

「夏川さんは?」

「あす海へ帰るので、氏家さんと名残りの酒をのみにでかけましたよ」

「あす海へ?」

「そうですよ。葉子さんが今晩かあすの朝には無事に戻ってくることがだいたい見当がついたからです。葉子さんの戻り次第海へ帰るという約束で、この洋次郎クンがユーカイ犯人と即時釈放の交渉をすることになったからですよ」

「じゃア、そのせいね」

洋次郎はしみじみ淋しさを味った。どれほど妹の身を案じてみても、戻ってきた妹は彼の存在に気のない一ベツをくれただけだ。他人よりもそらぞらしい。抱きしめるどころか、妹の方へすすみでることもできないほどのそらぞらしさが二人の間を距てている。