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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
02 第二部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 页
と彼女は云った、「もう、ゆあみの時刻でございますわ」
「冷えてきたな」と甲斐は云った。
彼はふしぎだなと思った。いま頭の中で話していた宇乃の言葉は、宇乃自身のものではない。それは母から聞いたことが、彼の空想のなかでまとめあげられたものである。彼がくびじろの角にかけられたとき、少なくともそれと極めて近い時刻に、宇乃は母の前で菓子鉢をとり落し、失神したような顔つきで、どこかをみつめていたという。そしてまもなく、彼が猟に出たさきで負傷した、という知らせがあると、宇乃はするどい叫び声をあげ、とめるのもきかずに、喜兵衛らといっしょに駆けつけた、ということであった。
それから九月の今日まで、宇乃は付ききりで甲斐の看護をした。逆上したようにとり乱して「おじさま死んではいや」と抱きついて泣いたが、それはあのときだけのことで、そのあとは口かずも少なく、立ち居もしっとりと静かであった。
二百四十日ちかく、いつも宇乃はそばに付いていた。こちらが話しかけなければ、一日じゅうでもものを云わなかった。しかし、甲斐には宇乃がいつも自分に話しかけているのを感じた。夜半に眼がさめるようなときでも、宇乃が隣りの部屋から、そっと自分に話しかけるのを、聞くことができるように思えた。