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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

02 第二部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 页

青空文庫

そうしていま、おみやが宿下りで帰って来、彼をさそい出そうとするいま、新八には拒絶できないことがわかった。彼は自分を罵り、卑しめながら、自分の内部からつきあげてくる欲望が、おみやの誘惑に抵抗できないことをはっきりと認めた。

――まだそうきまったわけではない。

新八は心のなかで云った。どこかで食事でもするつもりかもしれないし、いざとなったときはっきり態度をきめればいい。そう自分に云い含めながら、彼は野中の家族の顔を見ることができなかった。

「いってらっしゃいませ」お市は送りだしながら云った、「なるべく早くお帰り下さいましね」

新八は黙って頷いた。

二人が路地へ出ると、隣家のお久米が格子越しに声をかけた。おみやはそっけなく挨拶をし、新八をせきたてて通りへ出た。

「逢いたかったわ」おみやはすばやく囁き、袂を直すふりをして、ちょっと新八の手を握った。

「駕籠がいいわね」

「どこへゆくんですか」

「向島よ」とおみやが云った、「このあいだ、お屋敷のお中のお供でいった、いいところがあるの、長命寺というお寺のそばよ」

おみやはうきうきしたようすで、ながしめに新八を見た。新八は赤くなって、眼をそらした。