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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
02 第二部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 页
おみやは辻駕籠を二梃よび、「真崎の渡しまで」と命じた。
そのとき両国橋は、それまでの位置より少し川下へよったところに、新らしく架け直す工事をしていた。おみやと新八は真崎まで駕籠でゆき、そこから舟で向島へ渡った。土堤へ登ると、向うはいちめんの刈田で、ところどころに松林や、森があり、おみやがそれを指さしながら、「あれが三囲稲荷」だとか、「こちらが牛の御前で、そのうしろが長命寺」だなどと新八に教えた。
おみやが案内したのは、牛の御前の社から長命寺へゆく途中で、藁葺き屋根の、古い農家ふうの家であった。暗くて広い土間へはいると、縁台が三つ並んでい、戸口の隅には釜戸があって、大きな湯釜から白く湯気がふいていた。その釜戸の前に老婆が一人。また、障子のあいているとっつきの部屋に娘が一人。これは行燈の掃除をしていたが、――二人がはいってゆくと、その娘は老婆に声をかけて、すぐに障子をしめてしまった。
釜戸の前から立って来た老婆は、二人を見ると心得たようすで、あいそを云いながら「どうぞこちらへ」と土間を裏へぬけていった。槇の生垣のある路地をゆくと、梅林のある庭へ出たが、その庭に面して、やはり藁葺きの、隠居所ふうの建物が三棟あり、老婆はその端にある一と棟へかれらを案内した。