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ちのもじ
血の文字
黒岩 涙香
「綾にしき」1892(明治25)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,021 字 · 87 页
可き余の心に写りたる所は最と分明なるのみかは爾後幾年を経たる今日まで少しも消えず、余は今も猶お其時の如く覚え居れば少しの相違も無く其室を描き得ん、予審判事の書記が寄れる卓子の足の下に転がりて酒瓶の栓の在りし事をも記臆し、其栓はコロップにて其一端に青き封蝋の存したる事すらも忘れず、此後千年生延るとも是等の事を忘る可くも非ず、余は真に此時まで斯く仔細に看て仔細に心に留る事の出来ようとは自ら思いも寄らざりき、不意の事柄にて不意に此時現れたる能力なれば我が心の如何を詳く思見る暇も無かりき。
我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸に近き度き望みを起し自ら制せんとして制し得ず、我心よりも猶強き一種の望みに推され推されて余は警官及び判事を初め書記や目科の此室に在るをも忘れし程なり、彼等も別に余が事には心を留めざりしならん、判事は書記に差図を与え目科は警官と密々語らう最中なりしかば、余は咎められもせず又咎めらる可しと思いもせず、最平気に、最安心して、宛も言附られし役目を行うが如くに泰然自若として老人の死骸の許に行き、其傍に跪ずきてそろ/\と死骸を検査し初めぬ。