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ちのもじ

血の文字

黒岩 涙香

「綾にしき」1892(明治25)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,021 字 · 87 页

青空文庫

此老人歳は七十歳より七十五歳までなる可し、背低くして肉瘠せたれど健康は充分にして随分百歳までも生延得る容体とし頭髪も猶お白茶けたる黄色の艶を帯びて美しく、頬には一週間も剃刀を当ぬかと思うばかりに贅毛の延たれど個は死人に能く有る例しにて死したる後急に延たるものなる可く余は開剖室などにて同じ類を実見せしこと度々なれば別に怪とも思わず唯だ余が大に怪しと思いたるは老人の顔の様子なり、老人の顔附は最と穏かにして笑を浮めしとも云う可く殊に唇などは今しも友達に向いて親密なる話を初んとするなるかと疑わる、読者記臆せよ、老人の顔には笑こそあれ苦みの様子は少しも存せざることを、是れ唯だ一突に、痛みをも苦みをも感ぜぬ中に死し去りたる証拠ならずや、余は実に爾う思いたり、此老人は突れてより顔を蹙むる間も無きうちに事切と為りしなりと、若し真に顔を蹙むる間も無かりしとせば如何にして MONIS の五文字を其床に書記せしぞ、死るほどの傷を負い、其痛みを堪えて我生血に指を染め其上にて字を書くとは一通りの事に非ず、充分に顔を蹙め充分に相を頽さん、夫のみか名を書くからには、死せし後にも此悪人を捕われさせ我が仇を復さんとの念ある