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ちのもじ
血の文字
黒岩 涙香
「綾にしき」1892(明治25)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,021 字 · 87 页
こと必定なれば顔に恐ろしき怨みの相こそ現わるれ笑の浮ぼう筈万々無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、今にも我が敵に噛附んずる程の怒れる面色を存すべき筈ならずや。
殊に老人の傷処を検め見れば咽を一突にて深く刺れ「苦」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、曲者の去りたる後まで生存えしとは認む可からず、笑の浮みしは実際にして又道理なり、血の文字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あゝ余は唯是だけの事に気附てより、後にも先にも覚なき程に打驚き胸のうち俄に騒ぎ出して、轟く動悸に身も裂くるかと疑わる。
去れば余は猶お老人の傍を去る能わず、更に死体の手を取りて検むるに、余の驚きは更に強きを加え来れり、読者よ、老人の右の手には少しも血の痕を見ず唯だ左の手の人差指のみ紅く血に塗れしを見る、此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云う可きか、否、否、否、左りの手にて書う筈なし余は最早や我が心を抑る能わず、我が言葉をも吐く能わず、身体に満々たる驚きに、余は其外の事を思う能わず、宛も物に襲われし人の如く一声高く叫びし儘、跳上りて突立たり。