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オリンポスのかじつ
オリンポスの果実
田中 英光
「文学界」1940(昭和15)年9月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 75,277 字 · 147 页
その頃の流行歌の一節に、≪花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら≫というのがありました。ぼくは其処のところが、奇妙に好きで、誰もいないのを幸い、何遍も何遍もかけ直しては、面をたれて、歌をきいていました。
逢魔ヶ時という海の夕暮でした。ぼくは電燈もつけず、仄暗い部屋のなかで、ばかばかしくもほろほろと泣いてみたい、そんな気持で、なんども、その甘い歌声をきいていました。その時ひょいと顔をあげると愕然としました。あなたの仄白い顔が、窓から覗いているのです。あんなに捜してもみつからなかったのに、一体どこにかくれていたんです、とも言いたく、お元気でなによりですと、喜んでもあげたかった。
が、驚きのほうが強く、まじまじ目を見開いているぼくの顔にあなたは「ぼんち、今晩は」と笑いかけ、寂しさに甘えようとしているぼくの表情が判ると、ふッと身体を乗りだし「そんなとこで、なにしてんの。ホホ……」と少しヒステリカルに笑い、顔見合せると急に笑い止んで、やるせない沈黙の瞬時が流れましたが、ふっと表情をかえたあなたは「ぼんち映画みに行かないの」といい棄てたまま、くるりと身を翻えし、甲板の端の映画場のほうへ行ってしまいました。