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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
02 第二部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 页
甲斐には「くびじろ」がそう云ったように思え、はっと息をひそめた。鹿がこっちへ動きだしたのである。甲斐は弓を持ち直し、矢をつがえた。背負った寝袋が邪魔になる、しかし解いているひまはなかった。
風は北から吹いていた。くびじろは風上からこっちへ来る。用心ぶかく、ときどき鼻を上へあげ、周囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいて来る。ふしぎだ、と甲斐は末弭を少しあげながら思った。
くびじろは他のどんな鹿にも似ていない。狡猾なほど賢いし、物の音や匂いに対して異常なくらい敏感だった。そのくびじろが、いま風下に向かって歩いて来る。これまでかつてそんな例はなかった。それが絶対に必要でない限り、風下に向かうなどということは、少なくとも、「くびじろ」のばあいには見たことがなかった。
――ああ、と甲斐は思った。おまえ老いぼれたな。
鹿はいちど立停った。甲斐は「おちつけ」と自分に云った。鹿はまた歩きだした。粉雪のなかに、いまはその姿をはっきり見ることができる。みごとな角、逞しいからだ、雪をかぶっているためか、顎の白い斑毛が汚れた灰色に見える。動作は重おもしく、肢のはこびも鈍いようだ。