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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

02 第二部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 112,073 字 · 223 页

青空文庫

松原十右衛門が来るとまもなく、化粧を直した律が戻って来、そこへ坐るなり「十右衛門」といって泣きだした。

十右衛門は頭を垂れた。

「泣くなら奥で泣いてくれ」と甲斐が云った。

律は指で眼をぬぐいながら、十右衛門と呼びかけた。

「わたくしは船岡へ帰れなくなりました」

「律、ならんぞ」

「母上さまにも宗誠にも逢えません、こなたたちにももう逢えなくなります」

甲斐が「律」ときびしく云った。

「もうひと言だけ」と律が云った、「十右衛門、船岡へ帰ったら、宗誠に伝えておくれ、母はあなたがすこやかに成人なさるのを祈っています、母がどこかで、いつもあなたのために祈っているということを、忘れないでおくれ」

このとおり伝えてくれと云い、声をあげて泣きながら、律は乱れた足どりで、奥へ去っていった。

甲斐はなにごともなかったような、平静な顔つきで、去ってゆく妻の足音を聞いていた。十右衛門に盃を持たせ、自分も飲みはじめながら、甲斐は律のとりみだしたようすを、船岡の母や宗誠には告げぬようにと十右衛門に云った。十右衛門は「はい」と答えたが、顔をあげなかった。

律はその夜のうちに茂庭家へ去った。