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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
三
そして彼等自由主義者にとっては、この心情性が道徳意識の凡てであるので、道徳が単なる心情から一歩踏み出さねばならなくなる時でも、彼等は依然として心情の気分のままに歩み出す危険性を有っている。
三
自由主義者が何であり又何である筈かということは、今まで既に述べたこともあるから略するとして、ここで云うのは、所謂「自由主義者」としての自由主義者のことだ。処がこの自由主義者の道徳意識の皮相なことは、実際問題に対した場合のその態度決定のやり方の内によく見て取れる。彼等の道徳は心情に尽きる。だから心情を踏み越えた実践の世界では何等の道徳的方針もあり得ない。で彼等の善良な意識がそれの正反対な結果によって裏切られても、彼等の道徳意識は何等の苦痛をも感じないで済むのである。
云って見れば、自由主義者の道徳に於てはサイコロジーはあってもモーラリティーは存在しない。実行の世界である外界のリアリティーを貫く処の、リアリスティックなシステムなるモーラリティーがないのである。このことは今日自由主義者の系統を引く一流の文士や評論家が醸し出している所謂「文芸復興」の気運の中にも見られると思うが、至る処でリアリズムが高唱されながら、要するにリアリズムという合言葉が何の役にも立たない程に歪められたり稀釈されたりしているのを見ても、そこに表現さ