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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
)が用意周到に裏づけられているから、彼のおしゃべりには容易に嘴を入れることが出来ないように見える。小林秀雄の文芸評論に歯の立たない理由が之である。
弁証法で行くべき処を逆説で行こうとする。なぜかと云えば唯物論(之がやがて本当のリアリズムになるが)のない所には弁証法は必ずしも必然ではないからである。だが逆説の解決こそ他ならぬ弁証法だということは、あまり哲学上常識的で平俗で普通向きなので、小林秀雄に奨めるには不適当かと思う。
悪口みたいなことになったが、誤解や無理解を別にして、心がけから云えば随分同情のある批判をした積りだ。宮本顕治の小林秀雄論(『改造』昭和六年十二月)は、そういう意味でも、仲々いい批評だったと思う。
小林秀雄論で紙数を費して了ったが、実は少なくとも谷川徹三と森山啓とを批評したいと考えていたのである(以下「氏」を省く)。この三人を選んだ理由は大体見当のつくことと思うが、谷川と小林とはブルジョア文芸に於ける代表的な而も好一対な文芸評論家だと思ったからであり、森山啓は今日身体の自由なマルクス主義的文芸評論家の随一だと思ったからである。無論日に日に節度のある進歩をすることが特色であるマルクス主義的批評界では、現役でないと取り上げ悪い点があるのである。