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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
だが初めから文学主義的な思考のメカニズムなどを以て片づけられた時事問題は、決して唯物論的ではないのである。
曾て知人がイタリヤのパレートの業績を話しながら、私に、パレートの晩年は新聞記者のようになって了って、学者としては駄目になったと云っている人もあるそうですと教えて呉れた。もし充分考えた上で自信を以てそう云ったのだったら、このパレート批評者は一言にして愚を表わすものだと私は思う。新聞記者になったというのではなくて新聞記者のようになったというのだから(尤も夫が本当かどうかは私自身調べてはいないが)、多分ジャーナリスティックに、即ち時事評論家風に、なったということだろう。それが学者として悪いというからには、学問は時事性から純粋であるべきだというのが、この批評者の哲学上の信念になるわけだ。日常性を抽象し去ったこうした純正哲学は、丁度サラリーマンの謡曲のようなものであるか、それとも深刻な哲学文学者のように日常生活の方が余技になるかも知れない。とにかくそのどちらかに相違ない。読者はここでも超俗的な俗物が如何に生活に不忠実かということを見るだろう。
前に云ったこともあるが、一体ジャーナリズムというものの哲学的意義は今日哲学的に全く理解されていないばかりではなく、殆んど問題にさえされていないのである。