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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
例えば今日の左翼団体の言論に於て見られるような美文体は、多かれ少なかれ、この漢文式に「円熟」した熟語か又は未熟な「術語」の効果を利用しているだろうが、之は科学的言論の方法とは凡そ正反対な、幼稚なフラーゼオロギーをもたらすものだ。――こうした文章上の(実はだから又思想上のだが)センチメンタリズムが、如何に粗雑な思想感情理論能力の所産であるかを注意しなければならぬ。一体センチメンタリズムとは、感覚貧困者の唯一の感覚形式なのである。
処で第二に注意すべきものは、学術論文に於ける公式の意義とその使い道とである。論文が公式に手頼る場合、込み入った論構も極めて円滑に又確かに平明になるのであるが、この公式に就いては普通考えられている以上の問題が伏在しているのである。一体公式というものは学術的叙述に特有な而も欠くことの出来ない要素であって、純粋の文学的叙述から之を区別する方法論上の目安の一つとなるものだ。公式を使わない学術論文はないし、又あり得ないし、又あってはならないとさえ云って好いだろう。立ち入って考えて見れば文学上の古典さえ、実は公式を提供するという意味を有っていることに価値があるとも云えるだろうが、学術上の古典になれば、例えば哲学上の古典などになれば愈々立派にそう云える。