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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
純文学の使命は「新しい探究と解釈とに道が通ずる」といっても、ブルジョア・ジャーナリズムの下ではそういう道が終極において閉じられているので、形式的にはどうであろうと実質的な文学的進歩のない点では、惰性を好むいわゆる大衆(?)に媚びようという大衆文学と、殆んど何の選ぶところもない。ただ一方が愚衆を相手にするに反して、他方はセクトのものだというに過ぎないのである(純文学の孤城を守ろうというようなヒロイズムは、物質的にはそれ自身純文学の文学的衰亡をしか意味しない)。ところで無組織な愚衆とギルド的なセクトでは、到底結びつきようがないではないか。
或る理論家は、ジャーナリズムとアカデミズムという二つの範疇で物を云うことを斥けて、公衆(パブリック)という第三の範疇をこれに付け加えろと主張する。そう三つ揃わないと事物の分析が弁証法的にならないというのである。だが芸術雑誌の読者も公衆ならばキングやラジオの享受者も公衆なのだから、そういう公平な中間的な範疇ではジャーナリズムとアカデミズムとは、弁証法的になど媒介はされない。
すでに純文学の衰亡自身が物語っているように、文学でもジャーナリズムとアカデミズムとが単に機械的に並んで存在しているのではなくて、前者が社会的作用からいって、後者をリードしているというのが与えられた事実