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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
主体の問題を抜きにして唯物論の方法が成り立ち得ないという極めて判り切った原則は、文学乃至芸術に関する考察になると一等顕著に明白になる。文芸乃至芸術一般では何よりも何かの意味での主体が最後の最底の関心であるのが当然だからだ。
尤もそう云うことから或る意味に於ける主体主義を導き出すことになると、それは文学などの世界では極めてありふれた尤もらしい卑俗な常識に堕するのであって、それがそのままの卑俗さを蔽いかくすためにアカデミックな外被などをまとうと、見るに耐えないウスぎたない「理論」――「哲学」になる。例えば一頃流行った言葉である「主体的リアリズム」(主体の問題を解決しないようなリアリズムが一体どこにあったか)なるものの滑稽さや、「人間学的」文学論の諸々の凡庸な低級さなどに、それが見られる。人間の問題を取り扱うことが、直ちに人間学的な立場にならねばならぬなら、ガリレイは天文学主義者でなければなるまい。
身辺小説が何と云っても一等安易であるように、人間学主義は一等安易な――尤も荘重な身振りはするが――哲学である。人間の運命なるものが、もし観相学の対象であることに満足出来るならば、レーベンは「レーベンの哲学」